総合トップSS一覧SS No.4-092
作品名 作者名 カップリング 作品発表日 作品保管日
シュレディンガーの猫 紫苑氏 アッシュ×ナタリア 2006/01/03 2006/01/08

 覚めない夢ならば良かった。



「怠い」

 アッシュは普段通りに体を起こそうと試みたが、突然下半身を襲った重い倦怠感に阻まれた。
 無理矢理膝立ちになって足腰を叱咤するものの、一向に力が入らない。
 年寄りを笑うものではない。ベッド脇の鏡に映ったへっぴり腰な己の姿があまりに滑稽で、思わず脱力する。
 久方振りの誘惑に張り切りすぎたか。
 この分だと隣で寝息を立てている女には、自分以上に相当な負担が掛かっている筈だ。
 ただでさえ説教を得意とする女である。起きた時の癇癪たるや如何ばかりのものか…
 アッシュは沸き上がる負の予感に身をすくめる。
 今更悔やんでも後の祭りだが。

「…お前が止めないからだ」

 言い訳めかせて一人ごちると、隣の女が寝返りを打ってアッシュとの距離を詰める。
 純白のシーツに散らばる金色の髪が、カーテンの隙間から差し込む月光を受けて煌めいた。
 滑らかだった白磁の肌は汗ばんで薄い桃色に染まり、情事の痕跡を色濃く残している。
 アッシュは引き付けられた様に手を伸ばすが、何を思ったかそれが肩に触れる直前で止めた。
 代わりに汗で額に張りついた前髪を掻き上げてやり、目を細めてその顔をまじまじと覗き込む。

 抱いて改めて実感したが、女はとても綺麗になった。
 人と比べてどこか捻ねた思想を持つアッシュでさえ、素直に感嘆する。
 女性は成長につれて外面的な変化が顕著に現れると、いつか聞いた話はどうやら真実らしい。
 すらりと伸びた手足にも類稀なる美しさにも、昔の幼い影は残されていない。
 十歳の時に途絶えた、アッシュに残るファブレ家での数少ない思い出。
 それが正しければ、最後に会った時の彼女はまだまだ未成熟な子供だったと記憶している。
 七年と言う歳月は決して短くない。
 自分と女の立ち位置も、あの頃に比べて随分と変わった様に思う。

「ルーク・フォン・ファブレ、か」

 聖なる炎を意味する名。
 聞き慣れた名。
 失われた立場。
 かつては己のものであった、だが同じ顔をした別人に奪い取られたもの。
 それは敬愛する父母に賜った最初で最後の宝だけあり、その名を聞く度に胸を走る懐古は否めない。
 そして同時に理不尽な現実に胸を掻き毟りたくなる、忌々しい名だ。
 今の自分には、炎にその身を焼かれた者の残骸──アッシュ(灰)の名こそが相応しい。

「…だがお前にとっては、俺は今でもルークなんだろうな」

 皮肉にも離れた二人を再び繋いだのは、そんな<ルーク>としての自分が結んだ古い約束だ。
 身も心も、どれだけの距離を隔てようとそれだけは片時も忘れた例しがない。
 それは身以外の一切を失ったアッシュに残された、たった一つの拠り所とも言えた。

「ナタリア」

 アッシュは切実な声で女の名を呼び、その無防備な細い首筋に顔を埋める。

「俺は意地でも生き延びて、お前との約束を果たす。それだけは何があってもだ。だが」

 そこで一旦言葉が切れた。
 今アッシュが独り身を置く場所は、非常に危険な位置だ。
 いつ何処から崩れるとも分からない。
 幾ら覚悟を決めているとは言え、自分自身でその未来を想定し言葉にするには、それ以上の覚悟を要した。

「万一の場合は…お前はまた怒るだろうが、せめて半分だけでも果たさせて貰う」

 直接耳元に触れる吐息がこそばゆいのか、女がくすぐったげに身を捩る。
 だがそれでも起きる気配がないのを見て取ると、アッシュはそのままの態勢で続けた。

「お前ならこの国を背負って立つに恥じない。仮に一人になっても、立派に治めていけるだろう」

 その時凛と立つ美しき女王の隣にあるのが自分であれば、これ以上の幸福はないのだろうが。
 しかしアッシュがその気持ちを口にする事は終ぞなく、行き場を失った言葉は胸の内で堅く蓋をされた。
 甘えや依存心は弱さに直結する。
 それは何処までも不器用な男の歩みを支える、しかし取るに足らないプライドだ。


「お前だけは生きろ。この先に、何が有っても」


 呟く様な独白はそこで途絶え、漆黒の闇に飲まれて消えた。
 いずれ現実となる悲壮な誓いを、カーテン越しに二人を見守る月だけが知っている。

「ど…どうしたの、ナタリア」

 急に飛び起きた自分に驚いたのか、横に居たティアが目を丸くしている。
 薄く開けられた窓からは、小鳥の囀りが聞こえた。
 固いベッドを照らすのは月ではなく陽光だ。
 二人分の体液で汚れ、乱れている筈のシーツも綺麗に整っている。

「ひどい汗よ。気分が悪いの?」
「アッシュ…」
「え?」
「今、アッシュが居たんですの。此処に」

 からかっている訳ではないだろう、至って真剣な表情だ。
 ティアも思わずナタリアの隣に目をやるが、そこに誰かが居た痕跡は見当たらない。

「…ナタリア、落ち着いて。それは夢よ」
「いいえ、確かに此処に居ましたわ。暖かい手で私に触れて…」
「アッシュは此処には居ないわ。グランコクマで別れたきりでしょう?」
「で、ですが!」
「落ち着いて。今、何か飲むものを持ってくるから」

 ティアのブーツが床を叩く音と寝室の扉が閉じられる音を、どこか遠くに感じた。
 夢と片付けるにはリアルすぎる。
 触れる唇も掛かる吐息も、…縁起でもない宣言まで。
 何もかもがあれだけ鮮明に感じられたのだ。
 まさか、あの全てが、夢?

「そんな筈は……っ?!」

 ベッドから降りて状況を整理しようとしたナタリアは、ふと下肢に奇妙な感覚を覚えて固まった。
 この感覚。同じ経験を以前に一度だけした事がある。
 ──だが、まさか。
 ナタリアは意を決して短いスカートを捲り上げると、穿いている下着の中を覗き見た。

「…アッシュ…?」

 指の震えはしばらく収まりそうになかった。
 シルクのショーツを汚すそれは、ナタリアの粘液と混ざった白濁の精液だったのだから。


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